南海鉄道が難波−堺間開通したのが明治18年、これわが国私鉄の元祖である。難波−樽井間の開通は明治30年10月1日で、開通式には樽井の人々は勿論、近在から弁当持で汽車見物に集まり、現在の東洋クロス株式会社の所にあった高砂の松原は人で埋まったそうである。当時の汽車は一車を四つに区切り、ドアも片面四ヶ所のもので、瓦斯燈四個をつけたものであった。男里川鉄橋の工事は非常に難工事で尾崎までの開通は明治35年、和歌山までの全線開通は明治36年である。明治39年4月22日新車浪速号・和歌山号が運転された。当時は1時間毎位に発車され、樽井−難波間の所要時間は1時間半位であった。明治41年7月には海水浴客を当て込んで、難波−浜寺間を電化し、名も南海電鉄と改め、1台運転を2台連絡運転とした。これもわが国最初の電車運転である。当時の電車は、1台を動かす電動力よりなかったので、2台連結すると前車後車ともに運転手が必要であった。そこで二人の運転手は電話で連絡して操車運転した。運転手は右手をブレーキに左手をコントローラーのハンドルに、口の下部にはラッパ型の送話器をブラ下げ、両眼は前方に向け、両耳には受話器を当て、右足で警笛を踏み、空いている左足1本で体を支えているという苦労であった。発車・停車毎に電話で後車に「それ発車ー」「それフルスピード」「それオフ」と全身を汗に包んで働いたものである。今日の五両連結電車が運転手と車掌との二人で疾走するさまは、まさに交通変遷史の圧巻であろう。
 難波−和歌山間の電車開通は、明治44年11月22日である。開通当時の樽井駅付近は殆ど沼地で、前年新築した前の駅舎から、現三井住友銀行前道路まで駅前道路が作られていたが、現若草付近に一件の茶店と、現樽井ショッピングセンター付近に松の家旅館の二件がある寂しいものであった。駅前道路左右一帯は沼地で、翁屋履物店付近旧樽井墓地も、移転して間のない頃であったから、その頃はまだ無縁墓などもたくさん立っており、数本の古い松もあって、早朝や夜分などは物寂しく通る者は一人もなかった。そのため乗降客の多くは受法寺坂を下り、線路沿いに駅に行ったそうである。駅前には数本の柳の木があり、そこに人力車の待合所があった。当時樽井−佐野間の人力車賃は9銭であった。
南海鉄道の開通
第1号機関車
電1形
南海本線樽井駅
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