樽井の祭禮(祭礼)は、惣社金熊権現社の9月16日(旧暦)と村社の8月18日(旧暦)の2回の祭りがあった。金熊権現社の祭りは信達荘13ヶ村の祭りで大変賑やかなものであった。前日の15日は、各村々で櫓を曳いて宵祭りをするのであるが、樽井村では今と同様その日は朝から踊り場に六つの櫓を出し、日没からしこり初めて、現在の府道63号堺・阪南線(旧国道26号線)まで往復する程度のもので、ごくあっさりと終わったものである。これは翌日の本祭りの神輿かきの行事が、樽井村にとって非常に重大な行事とされていたからである。16日の本祭りには、13ヶ村の村民が早朝から参拝するので、牧野の大鳥居から金熊寺の宮まで延々と列をなし、さしも広い社殿は勿論寺の場所まで人で埋まる程であったと云う。本祭りは神輿の渡御と座が主な行事で、先・仲・跡の三躰の神輿が、樽井浜に渡御したものである。仲神輿は神倭磐余彦命(神武天皇)の御霊の座す神輿で、これは樽井1ヶ村でかき、先・跡二躰の神輿は金峯熊野神の御霊の座す神輿で、これは残りの12ヶ村から六名出て「寄りがき」することになっていた。仲神輿というのは主神の座す神輿であって、樽井に下る時、また宮に帰る時も何時も先頭で、座る時は中央部に座るので仲神輿と云ったものである。樽井1ヶ村で神武天皇の御霊の座す神輿をかく習慣は、往事この神が樽井にお祀り申していた事を立証するもので、樽井村民は我等の神として、他村の者にかかさず慈母に接する親しみを感じながら、喜んで担いだものであろう。三躰の神輿の渡御は実に盛観なもので、金熊権現社出発が今の時間で9時、樽井浜着が11時と定まっていた。しかし毎年の様に出発が遅れ大抵9時半頃で、樽井浜着が11時半頃になった様である。渡御は各神輿毎に三つに分かれ、各行列の先頭には日の丸の御旗が立ち、続いて道具持ち、最後に神輿が来る。一番の神輿の行列が通ると少し間をおいて第二の神輿の行列、続いて第三の神輿の行列と、全長数町に及ぶ行列であったと云う。しかし祭りには、昔から必ず村と村との競争意識が強く打ち出される事は、昔も今も変わりなく、樽井1ヶ村で一神輿をかく事は他村の羨望の的で、その為神輿相互の間に毎年の様にもめ事が起こり、神輿を落とし合う様な事も度々であった。この日の神輿かきの行事は、神輿を担いで渡御するという軽い意味のものでなく、樽井としては面目にかけての行事であったらしい。神輿かきが無事に神輿納めの行事が済み、村外れに迎えた村民の感謝の言葉を受け、初めて夜の櫓曳きの行事に移る訳である。この夜は心おきなく朝頃まで曳き廻し、思う存分しこり廻ったものである。
この古い歴史を持つ権現社の祭りも、明治維新後の経済事情は惣社、村社二社の維持が困難となり、座の入費に耐えかねる村も多く、惣社を離れて村社のみとする村も出来、明治43年を最後に中絶してしまったものである。三躰の神輿も今は一躰の神輿となっているが、未だに樽井浜で汐かけ行事を行う事は昔と変わりなく、樽井区民の中には今なお神輿を拝する者の多いのは、往事の面影を偲ぶ姿の現れと云うべきである。
大阪府の南部で秋祭りに曳行されている山車・地車の一種で、地元では、櫓(やぐら)と呼んでいます。同じ山車でも岸和田市の地車(だんぢり)は非常に有名ですが、その極端な違いは地車は四輪であるのに対し、櫓は二輪であると云う事です。大阪府でも泉佐野市の一部、田尻町吉見以南の地域の秋祭りは、全て櫓が曳行されています
惣社金熊権現祭と樽井
櫓とは・・・
達神社(元金熊大権現宮)
金熊権現祭の仲神輿
手前は、金熊寺の櫓の太鼓です。
信達神社 本殿
inserted by FC2 system