提灯講とも云う。明治期に吾妻中との合併で宮元講が成立する以前に存在していた。櫓部屋は現在の石神内科の辺にあった。
 古老の話では、岬町淡輪に売却されたと云う説が最も有力であり、明治30年頃泉南市より購入したとされる淡輪大東組の櫓の可能性が高い。淡輪大東組の櫓は、樽井の櫓に比べ小振りで縁障子も無いが、太鼓は阪南市等他地区に比べ大きく、道幅等の事情により小さく改良されたとも考えられる。
 樽井の櫓の起源は、現在調査中であるが文献等で調べる限りでは、大体江戸時代後期以降ではないかと推測される。昔は、樽井櫓は大きくござる。師子講 吾妻中 桃灯講 講戎 若戎 浜中と言われ、六台あったが、現在は、吾妻中と桃灯講が宮元講に、講戎と若戎が戎福中講になり、四台になった。外形は基本的に同じだが、寸法・彫物などに特徴があり、四台とも高さ約5m全長が約11m近くあり、特に太鼓が非常に大きく日本でも八台とも六台とも言われる位有名である。また、樽井の櫓には、雄・雌があると言われており、獅子講が雄、宮元講が雌の上の櫓。戎福中講が雄、濱中講が雌で下の櫓と、それぞれ一対になると言われている。雄の角は大きいのが1本、雌は角を付けていなかったが、現在は四講とも角は1本になっている。
 
元治元年の9月以前に講戎と合併して戎福中講が成立する前に存在していた。櫓部屋は現在の戎福中講の櫓部屋のところに講戎と並んであった。
元治元年の9月以前に若戎と合併して戎福中講が成立する前に存在していた。櫓部屋は現在の戎福中講の櫓部屋のところに若戎と並んであった。
東講とも云う。明治期に桃灯講との合併で宮元講が成立する以前に存在していた。櫓部屋はかんの呉服店より山手の角(現:古野・金谷様宅)にあった。現在の宮元講の櫓はこの吾妻中の櫓を継承したと云う説が最も有力である。
講戎・若戎の二つの講の合併により成立。元治元年の9月に『五組名前帳』が作成されており、その中には『桃灯講』『獅子講』『吾妻中』『福中』『浜中』とあり、既にこの時代には、六台から五台に成っていて、『講戎』『若戎』ではなく、『福中』に成っていた。昭和61年大下工務店で彫物以外の8割を新調する大改修を行う。
明治期に桃灯講・吾妻中の合併により成立。現在の宮元講の櫓は、この吾妻中の櫓を継承したと云う説が最も有力である。
彫り師は銘が入っていないので定かではないが、幕板の彫りから二代目高松彦四郎(安田卯ノ丸)作かと思われる。櫓は明治初期に新調。昭和62年、植山工務店で大改修。
師子講とも言う。獅子講においては、母屋前前懸魚、御簾横幕板3枚の彫物4点は元治元年(1864)8月西岡弥三郎藤原政光とありその年に新調されたと考えられる。この先代の櫓はジェーン台風(昭和25年9月) により被害を受け、櫓部屋ごと倒れたので昭和26年に現在の櫓を新調。阪南市波有手の大工の作とされる。平成14年には、ほぼ新調に近い大改修が味園建設により行われた。
浜中とも言う。濱中講においては、文化6年(1809)年に新開沼田西側開拓のため講が成立し、文政2年(1819)年の櫓諸記録が残っているのでこの10年間の間に先代の櫓が作られたのではないかと思われる。明治19年に現在の櫓を新調し、先代の櫓は焼却処分となる。大工棟梁は不明。彫り師は西岡弥三郎。昭和55年9月新開沼田売却により、平成8年植山工務店にて大改修を行う。
合併される以前に存在していた櫓
(ちょう ちん こう)
(あづま なか)
若 戎
講 戎
参考文献:『樽井町誌』
       『泉南市誌』
       『泉州地車往来』
吾妻中
桃灯講
(こう   えびす)
(わか   えびす)
(はま なか こう)
(えびす ふく なか こう)
(みや もと こう)
(し し こう)
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